傍流

現役大学生の僕が思うことを思うままに書いていくブログです

6月6日(土)【大学について思うことなど】

今日兄と銭湯にいく道すがら、いろいろと考えていたことがあったのでつらつらと書いていきます。

 

受験生や大学一、二年生はともかくとして、多くの大人が大学を語る時に学生目線でしかできないのはなぜなのでしょう。非常にもったいないことだと思います。入試難易度というのは大学の一面に過ぎず、実に受験生的なものの見方であると感じます。

もっと共同体の中での大学の役割、それまでの小学校高校といった教育機関と違い世代を問わず学べること、人々の交歓の場、これらの要素からみると大きく認識がわかってくるように思います。

 

 

大学を国立と私立で大別した時、大雑把に言えば

 

国立:全国各地に点在、頭がいい、費用は安い

私立:都市部に偏在、頭が悪い、費用は高い

 

非常に乱暴な分け方ですが、いったん例外を無視してみれば、傾向としてこのように言えると思います。

 

国立大学が法人化されて以降、国立大学は経営の面からしても優秀な学生を集める面からしても、変化を求められるようになりました。

そうした中で、国立大学がAO入試などを積極的に取り入れて、特異な能力や経歴を持つ人物を学生に組み込んで、広告塔として活用する、もしくは研究や進路において成果にを出させようというのは自然な流れであると思います。たとえそれで、巷で言われているようにそれまでの学力基準にみたない人物が入学したとしても、私は良いと思います。

 

 

そもそも学力が低い人が大学で学ぶことのなにがおかしいのでしょうか。

これはいわゆるFラン大学を叩く風潮にも言えますが。

例えば四則演算ができない大学生がいたとして大学でそれを学び直すとします。もし彼がその大学に入らなければ、学び直す機会に触れることのないまま過ごしていくでしょう。頭が悪くても高等教育に触れることができる、これは非常に有り難く恵まれた幸福なことだと思いますよ。そうでない社会では彼は生涯学問を知らず死ぬのです。彼が旧友や教授や職員と触れ合う中でなんらかの技能や知識や学問を身につけて社会に出る。幸福なことではありませんか。

もちろん全てがそうではないでしょう。遊び呆けて数年を過ごし高卒以上の給与をかっさらっていく。そこにはいくらかの税金が投じられている。そこに反感を抱く人もいるでしょう。

だが、投じたもの全てが結実するわけではないのは大学に限った話ではありません。

小学校中学校高校全てそうです。一回戦で敗退したら野球部の活動は無駄でしょうか。未熟児で生まれた子が数日後に死ねばその子に投じた治療費は無駄でしょうか。それらにも税金は投じられています。というかこの世で税金の世話になってない人間など(無政府状態でない限り)いません。踏む道、規制によって守られている大気、他人が襲ってこないという治安、全て税金の賜物です。税金の話になると少し長くなるのでここまでにします。

 

とにかく、私は学問というのは格差を乗り越えられる最も確実な手段だと考えています。それに学ぶことはとても楽しいことですしね。たくさんの人に学ぶ機会があるというのは良いことだと考えています。

 

乱文になってしまいました。書きたいことを書いてしまった。時間をおいて見直して矛盾がないか新たな発見がないか振り返るつもりです。書くのは楽しい。