傍流

現役大学生の僕が思うことを思うままに書いていくブログです

3月9日(火)【とむらい】

三月九日ですね。三年前の今日、友達の葬儀がありました。あの日々はとてもよく覚えています。

 

三月七日、寝起きにスマホの通知が溜まっていたので見てみると、冗談のような文章が並んでいました。とても真面目な文章で、友人が死んだというもの。これから先もう一度にたようなことが起こり、私自身起き抜けに親しい人が死んでると聞かされるという悪夢をよくみるようになりましたが、それはまた別の話。

 

本当に悲しかった。それまで斜に構えて死だ絶望だなんて言っていたのが途端に吹き飛んで、変わって欲しい現実だけがそこにありました。自分は泣かない人間だと思っていたのに涙が止まらなかった。悲しかったのは、元気な時は男前だった友人の顔が全然違ってしまっていたこと。土気色、というのはこの色なんだと感じました。

 

最後に会ったのはほんの2週間ぐらい前でした。その時自分は彼の悪口を言っていて、大したことではないのですが、ツッコミの叩く力が強いだとかなんとか、くだらないことです。だがこの時ほど自分の軽薄さを恨んだことはない。なんでもっとよくしてやらなかったのか。

 

しらせを聞いてまず自分が考えたのは、なんで彼なんだろう、俺の知らない別の誰かが人が死ねば良かったのに、ということでした。本当に嫌になる性格をしていますね私は。そんなことを考えても何の意味もないのに。

 

声が、声がもう思い出せなくなってきているのが悲しい。私の名を呼ぶ少し早口のあの声が、だんだんと頭の中で完全に再現できなくなってきている。忘れたくない。

 

いつの間にか彼の歳を追い越してしまったみたい。

 

今年私は大学を卒業します。友と別れるのは悲しいし寂しい。でも三年前の今日の別れの悲しみに比べたらどうってことはない。いや違うかな。比べられるものではないか。それに俺の頭の中に彼はいる。

自分は魂なんて信じてはいない。鼓膜が震えるから音が聞こえる。神経があるから情報が伝わる。だというのに石に話しかけて意図が意識が伝わるものだろうか。けれどそんな自分でも確かに考えていることがある。俺の記憶の中の彼だけは、思い出だけは確かに存在する。永遠ではない。薄れもする。それでもここに確かにいる。

 

悲しんでばかりではいられない。たしかに悲しかったけど一緒に過ごせて楽しかった。殉ずるのとも報いるのとも違う。ともにいる。そういう気持ちでいたいと思う。ありがとう。