傍流

現役大学生の僕が思うことを思うままに書いていくブログです

4月20日(月)【ラーメンたべた】

自分の目標について。

本当に自分の人生を終えるというときにどうであったなら満足なのか。なにをしてしまったら不満なのか。考えたりしています。

 

ひとに馬鹿にされたくないというのは無限なんだと思います。きりがない。馬鹿にされないという状況、他人に誇れる身分というものは、欲しくはありますが、なんとなくそれを目標にしてしまったらダメな気がしています。懸命な努力の果てに副次的についてくるというようなものだと考えています。だからこれは目標にならない。

 

逆にいえば、私は目の前の子供や病人や弱者を虐げてなんとも思わないような人間にはなりたくありません。これは私の根源からの願望です。ずっと思っていました。そうした行動をする人間を見てきて、この人たちはどうして自分がそっち側に回らないと思い込んでいるんだろうか、自分の安寧や成功が僥倖の上に成り立っていることをどうしてわからないんだろうか、と。

それと目の前、というのも大事な要素で、遠く離れた赤の他人までをも真に気遣うことは私にはできないと考えています。あくまで目の前の友人を助けられるような人間でありたいのです。

 

子供が欲しいというのはなんだかんだ思います。連れ合いがいるわけでもありませんが、自分の生きる理由のくさびを残したい。血縁に拘りはありませんが養父であれ伴侶は必要でしょうし、まあその前に人間を愛せる人間でなくては。

 

高校の時宗教の授業で障害児についてのものがありました。男の子が生まれる、女の子が生まれる、そういった偶然と同じように当たり前に障害を持つ子供は生まれてくる、と。母一人、健常児一人、障害児一人の一家で母が無理心中を図った。障害児の子だけが生き残り、周囲は生き残るなら健常児の方がよかったといったが、そうではないのだと著者の方は記していました。

非常に感銘を受けた授業でした。

私が今生きているのはいわばそういった貧乏くじを引いてくれた人のおかげだとすら思ってます。報恩はしなくてはならない。とはいえ今現状として何か自分で行動でできているわけではありませんが、潜在的な認識としてそう考えています。

本当のところ、実際にその立場になってみないとわからないと思います。ただ私は子供ができたとしたら、別に学校が私立だろうが公立だろうが、なんの仕事をして欲しいとかは思いません、ただ生きて欲しい。手足がなくてもがダウン症でも、育てられるだけの収入を得る必要がある、そうでありたい。

 

 

誰に馬鹿にされても良い。コケにされても良い。ださくても良い。両手の指の数で足りる程度の人数を援ける為だけに生きたい。

温暖な気候。新鮮な空気。美味しい果物。因習に囚われない風潮。弱者に優しい人々。そういった環境の下で生きたい。

 台湾に住みたいという思いはあります。これはしがらみからの逃避という面もあることを認めます。ただどんな動機にしろ能力が求められる。今まで自分は簡体字しかやってきませんでしたから、もっと勉強しなくてはなりません。また観光や留学でなく、労働ということを考えると、よく見据える必要があります。まあ、頑張らなくては。

 

久々に長く書いてしまいました。もう少し整えるようにします。

今日はお昼にラーメンを食べました。美味しかった。