傍流

現役大学生の僕が思うことを思うままに書いていくブログです

9月12日(木)【清流】

今日は川に行きました。水は冷たくて泳ぐには少し寒い程度でしたが、とても楽しかったです。なんだかこんなに幸せで許されるのかなあという具合には楽しかったです。自分の中の汚い感情がこの透明な水に溶け出て浮き出て周りにバレてしまわないか不安でした。ふ。少し滑稽ですね。

 

言葉が溢れて溢れて止まらない。もう少し地に足をつけたことを書いていきたいのに、頭の中に溢れ出る言葉が止まらないのです。まだ、時間がいる。普通に生きるには。

 

この胸の内に刻まれた呪いはけしてとけることはないでしょう。何故ならば呪いというものはひとりでに発生するものでなく、誰かに呪われて初めて生まれるものなのですから、私を呪った何者かを撃滅しない限りはきっととけることはないでしょう。それは誰?親?神?いいえ多分違います。私はその答えを知っている。それはきっと私自身なのでしょう。

 

私の夢は死ぬまでに叶うことは絶対にないけれど、私が死ぬことは私の夢に一歩近づく行為です。

 

それではまた明日。

9月6日(金)【髪がだいぶ伸びてきた】

なるほどあなたの言う通り肉体が滅びようとも魂は不滅かもしれない。だがそう考えるあなたの意識は、あなたはそのものは、肉体の方にあると思う。だからあなたは滅びる。そして魂というのはもっと別の場所に宿るんだろう。

 

 

話した1秒後にはその話した内容や話し方を後悔する。くだらないことを言った。嫌な言い方をした。そう考えているうちにまた似たようなミスをする。落ち着き、慣れ、技術、一体どんな要素があればもっとうまくやれるようになるんのだろう。たぶん20年後も同じことを考えているような気がする。

 

本を読んでいるときのピンとはった静寂が好きだ。誰に侵されることもなく、何に縛られることもない。

だが最近は本を読んでいない。読みたいと思うのに読めない。頭の中のざわつきが邪魔して、目がインクを追えない。

 

明日は、髪を切ろう。

9月3日(火)【爪を切った日】

自分の知らないうちに己のもっとも忌み嫌う存在に近いものになっていたのかもしれない。行動せず、責を追わず、かといって口だけは達者で、ひとのせいにしてばかり。

虐待された人間がその子にまた虐待するのと同じように。忌避したいと願っているにも拘らず自分もまたそうなってしまう。それとも、自分のなかにある要素だからこそ、嫌ってしまうのか。

 

このまま老いさらばえて、糞尿を垂れ流すような年になって「ああこんな人生は不本意だった」「他人のために我慢した人生だった」とでもぼやくつもりか。いまはまだかろうじていい。泣いていたらギリギリ誰かが見てくれる。だがそれももう終わりに近い。親が死ぬより前に身を立てねばならない。

否定的であるのはいい。だが、自分を犠牲にするとかいう誰も望んでいないことはしてはならない。行動的な厭世家を目指す。

 

 

努力のもっとも危険な点は、それが自分の力が増大したと勘違いしてしまう点だ。所詮は捕食される直前の弱者が、額を地につけ命乞いをし、気まぐれを勝ち取ったに過ぎないというのに。

8月29日(木)【例日】

自分が生きているのが、あまりに理不尽に思えてしまう。

 

俺は、ただ生きられれば、それで満足だったんだ。普通に息をして、道を歩き、家に帰る。休日は本を読んで、親兄弟に恩を返して、やがて死ぬ。

けどあんたたちはそうじゃないっていうんだろう。 普通じゃあ満足できないってんだろう。人よりいい暮らしをして他人を見下していい気分にならなきゃあ我慢ならないっていうんだろう。

だったら俺はそっち側に立てない。幸運な人間をより幸せにする方には乗れない。

 

ペットボトルのトマトジュースは注ぎ方に気をつけないとキャップのあたりがベトベトになってしまう。勉強になった。

8月24日(土)【久々のヒトリノ夜】

金曜日にアパートに戻ってきました。変わらない友人たちと会えて一安心です。4年生ともなると知り合いの多くは後輩に当たるわけですが、ここでは可能な限り友人と呼びたいですね。それは彼らはそれぞれある一面では私を凌駕しているし、対等な存在であると思いたいがためです。

 

今日同郷のメンバーを数人集めて飲み会を開きました。こういうのもたまにはいいですね。

8月22日(木)【長かった帰省】

明日実家を出て家に帰ります、長かった。そして現実に向き合わねば 。前進を後退を繰り返しとる。そう言えば24日の飲みの予約まだとってなかった。明日やる。友人が県庁うかった。良き良き。彼は実に気のいい奴なのでめでたいです。自分も頑張らねば。やるべきこととしては。スケジュールの整理とパソコンの修理ですかね。まあこの辺りも家に戻ってからぼちぼちやっていきましょう。

 

 

8月18日(日)【部屋の片付け】

今日は部屋の片付けを行いました。

幼稚園やら小学校やらのものまで出てきてなんだか懐かしい気持ちになりました。自分の幼い頃の写真というのは親が機械に弱かったこともあり、多くはカメラの中で朽ち果ててしまっていました。そういうこともあり、今回自分が幼い頃の写真が出てきたのは嬉しい限りです。

 

自分は痛みを知らぬ主人には仕えられぬとおぼろげに思っていましたが、それだけでは足りないのかもしれません。というのも、痛みを知っている人が皆それを克服し向上心を抱いているとは限らないと思い至ったためです。自分が苦しい思いをした分、他人にももっと苦しい思いをさせてやろう。苦しみとは縁遠い所へ行こう。そういった人の方がむしろ多いでしょう。こんな簡単なことを、理解し難かったわけではありません。なぜなら現にこうした感情は、今でも私の中に確かに巣食っています。ただ目を向けてこなかった。人を率いている大器には、痛みの経験と、それを乗り越える度量と、人を慮る心を持っているべきだ、持っていて欲しいという子供染みた願望を抱いていました。ただ現実には必ずしもそうではない。最近になってそう思います。